走っているのは誰だ?

100分で名著、夏休みスペシャルで「走れメロス」が取り上げられていました。誰でも知っている太宰治の代表作の一つです。確か小学校の教科書で読んだ気がします。

 

(原作はこちらで青空文庫で読めます。

 

番組では主人公は誰?という切り口から語っていました。メロス、暴君ディオニス、セリヌンティウス、一体誰なのか、色々な意見が出ていました。

 

そして、この登場人物達は、実は一人の人間の中にある様々な気持ちだという風な読み解きをしていました。心の中にいるキャラクターたち。

 

確かに、心の中には、たくさんの自分がいて、いつも葛藤しています。メロスのような、葛藤しながらも、自分の限界まで走るキャラがいるといいのですが、なかなかメロスのようなキャラを明確に育てていくのは大変です。メロスも走ったり、歩いたり、立ち止まったり、休んだりしていましたね。

 

少し難解なのは、こうした明確なキャラもいるし、闇に隠れている明確ではないキャラもいます。特に日本人の場合、その辺りがおぼろげなのかもしれません。一人の自分自身に統合しておくのは、忖度、本音建前社会の日本では、結構大変なことかもしれません。日本では、個人ではなく場に心がある場合もありますね。他人の中に自分が、自分を共有しているような感じです。場の空気感、風習や習慣。西洋人のようにしっかりした自我を持たない日本人が、他人の気持ちを大切に生きていくのはこうした心理状況から生まれて来るからかもしれませんね。

 

合理的な発想で割り切れない自分、視覚を超えた世界、言語を超える世界にまで広がっていた、古い心を持った日本人の姿が垣間見られます。その在り方は身体性の中まで広がっています。身体にも、場があり、この場を安定させていくことも10シリーズで行います。安定した身体とは、1つの要素でできてなくて、いくつかの複雑な構成により成り立っています。

 

さて自分の中には誰がいて、そして人生の主人公は誰ですか?走っていますか?

あなたという本質は言語を超え、どこまでの広がりを持っていますか?身体にその姿がかいま見えて来るときがあります。

未来への遺言

たまたま付けたテレビですが、未来への遺言「今を生き抜くヒント」として、養老孟司さんはこのように話していました。

 

「からだに訊け!」

 

ズバリそのままですが、やはり現実が分からなくなってきたら、身体にきくというの一番間違いないですね、さすがわかってらっしゃいます。頭で考えたことより、今のあなたに現実を近づけてくれます。ほんと、今を生きるヒントですね。

 

 

 

 

 

戦い

家では迷惑がられますが、実は格闘技とかは比較的好きです、笑。やはり男の子の魂が自分の中にもあるのを感じます。命をかけることなど、日常生活ではすっかりなくなった現代ですが、いざという時には、戦って勝ち取る、そんな意識もあるのでしょうね。今は代償戦みたいなものが多いのでしょうか。戦いを全て禁止するような現実は、全体性を表してないような気もします。ゲームや創作の中では、戦いは多いです。

日本人は平和な民族と言われていますが、争いが全くない訳ではありません。怒りというのは、一つの感情表現。人間の感情の一つです。

 

殴ったり、ぶつかったり、絡み合ったり。肉体の衝突を基本に、即興パフォーマンスを繰り広げるコンタクトゴンゾ。ダンスとアートの境界を越え、国内外の芸術祭で引っ張りだこの存在です。いったい彼らの何が人を引きつけるのか。ちょっと映像を見てください。

双方向

体を見ていると本当に学びが多いです。日々発見しています。我々が行なっていること、特に、無意識に行なっていることは、身体の中に体現されているのではないでしょうか。自分の体を見て、自分の体の声を聞いて、自分自身に反映していく。なんて素敵なことなのかと思います。意識は自分の一部です。身体性の中に、あなたの総体が反映されている、僕はそんな風に感じます。

 

体が変わっていくことに恐れず、受け止めていけば、長い目で見るときっと自分らしい方へとシフトしているものです。自然でありたいという身体の健康力を引き出しましょう。あなたの可能性は、あなたの体にあります。

 

さて体の英知を一つあげるとすると、それはまず双方向ということです。

新しいコンテクスト

原点みたいな話が多いですが、ニュートラルになることの、生きやすさ、楽さは、どれだけ書いても伝えきれません。

 

「正解」や「良い」を探してきた人にはなかなか理解するのが難しい感覚です。正解のないあなたそのもの。

 

良いだけでない全体をもう一度見直して、自分のニュートラルを感じていくというとてもシンプルなことなのです。

過去や未来でなく、今の感じ方で、楽なからだになってみるということです。

新しい文脈、新しいコンテクストに、出会ってみるということです。

 

 

生きていると、様々な習慣的な身体の動き、仕事、生活環境があり、身体はつい、それらに合わせて、頑張っていきます。そっちの方を自分自身だと思っているかも知れません。

 

動き続けてきた人は立ち止まってみる。動いて来なかった人は、動いてみる。

自分のして来なかった経験は、あなたに新しい気づきを与えてくれます。

 

10シリーズでは、10回の様々な文脈からのセッションで、止まった状態で身体のズレや歪みを確認したり、動いた状態で、動きや空間への広がりを確認していきます。自分だけでは分からないことが、セッションにより、見出されてきます。頭で考えても分からないことが身体から気づかされてきます。楽で自由な身体という新しいコンテクストとの出会いの扉を開けましょう。

 

もの言わぬものがもの申す

台風、地震の続く日本列島ですが、昨今の自然災害の被害の大きさに驚かされます。変調を来している自然環境からの揺さぶりが日本だけでなく、世界中で起こっています。まさにもの言わぬものがもの申す時が現れ初めているのかもしれません。

 

身体も自然なものですので、同じように変調を来してきている人が多いと思います。個人差はありますが、現代の都市生活環境、食生活、人間関係など、どれをみても健全な状態とは言えないの状況ですので、あとは各個人の身体と精神、行動と思考によって、現実は少しづつ変わっていくことになるでしょう。もの言わぬものがもの申さないように、日頃より、意識し、整えていきたいところです。身体とは生き物ですから。

 

さて、健康診断、がん検診に行ってきました。毎年受けていますし、結果が出るので、目安にはなると思います。しかしどうも好きになれません。また検査に現れない部分、数値化できない部分も身体には色々あるよう思います。

例えば身体の調整力やコーディネーションなんて数値化が難しいですしね。

 

 

もの言わぬ身体の声が聞きたくなったらお越しください。健康診断に現れない身体の今を知り、ズレや歪みを減らしてニュートラルな身体を手にしましょう。

Daydream Believer

成功体験が続く人々が世の中にはいます。幸せなんて追いかけずただ夢を見て前に進む人たち。

 

彼は生まれてこのかた失敗したことがないのです。失敗しないように生きている場合もありますね、日本人だと多いかもしれません。やがてそれは神話に変わります。神話が現実を支え、現実は新しい物語となります。神話の中には、神様がいて、勇ましい姿で彼を支えます。神と一体になった彼は、勇ましき姿のヒーローとなり、彼は命さえ捧げます。誰にも負けたくないという原初の魂です。

 

 

 

成功体験の続く幸せな彼は、言ってみれば起きている時間のデイドリーム、白昼夢を見ているように、この世を謳歌します。誰にも負けません。ヒーローが役割だと信じて止みません。愛するものを守る為に。夢見ることは素晴らしいことですが、百戦錬磨、常勝の彼でも、いつかは破れる時が来ます。破れないといって頑張りすぎてしまうと、気がつかないうちに、他人の犠牲の上に、勝つための手段を選ばない中で、勝ち続けている。そんなこともありますね。けして本人は気がつきませんし、巻き込まれた周りの人も何も言えません。

 

さて、勝つことを覚えヒーローたちは、死ぬまで勝ち続けるのでしょうか。どこかで引退するのでしょうか。いつまでもヒーローでいたい、そんな魂も、頑張って来た人ほど持っていて、死ぬ気で頑張ったりします。身体の声を無視しても。周りの声を無視しても。小さい声など耳に入らずに進んでいきます。

 

人生はその時々で色々あるものです。どこかで自分に気づいて修正する、それも勇気です。ちょっと痛い思いして気づく。それでもいいでしょう。気がつかずに最後まで行ってしまう、それもまた人生。夢もいろいろ、見果てぬ夢、それも味わい深いものです。でもやっぱり、人生のどこかのタイミングで、自分を幸せになる方へシフトするのがいいだろうな。そんな風に感じ始めたのは、僕も少し歳を取ったからでしょうか。

 

 

デイドリームビリーバー。 

矢野顕子さんのバージョンで。

ヴァージンの物語

さて、ヒーローたちがどんどんいなくなる現代で、物語として成立する主人公は、誰でしょう?

 

ヒロイン?悪者?一体どういう物語が現代社会には、ドラマチックな味わいが出て来るのでしょう。いつも自分の人生の主人公になる!と、なんども繰り返している身としては何か提示しないといけません。

 

新しい主人公は、ヴァージン。そんな説を、映画から読み取ってまとめたのがこの本です。「新しい主人公の作り方」。活性化が求められる現代日本で、サクセスストーリーとなる1つのプロトタイプと考えられます。

 

ヴァージンの物語を、読んでみると、確かに盛り上がる物語ですが、ヴァージンになるのは、かなり大変です。特に男にとって、ヴァージン的環境になれてない。そんな気がします。

 

でも人生100年時代、人生の前半にヒーローとして過ごして来た人たちも、人生の後半は、ヴァージンになって、再度物語の主人公を送るのも悪くはなさそうです。ちょっとその気持ちになって、妄想してみましたが、いやーヴァージンの物語は、辛い辛い。ヒーローはヒーローで、大変ですが、ヴァージンは、ちょっとメンタルが、心が辛いです、笑。

 

僕自身、人生前半は、体現形としては、サラリーマンー起業独立というヒーローの物語。後半は全く新しい視点からのロルファーというヴァージンの物語という体裁はとっていますが、今はステージ10、荒野を彷徨うあたりを、うろうろしているのでしょうかね。いやー本当にヴァージンは辛い、こんなに心を痛めるものだと、想いもよりませんでした。

ヴァージンスタイルで生きて来た女性たちにはすっかり頭が上がりません。

 

話がそれましたが、そんなかんなで、男性性、女性性、両方持ち合わせた、陰陽バランスのよい人間になっていくのかもしれません。人生後半に向け、自己変容したい方はロルフィングお勧めします。

 

自由な身体

 

「カラダはもっと自由になれる」

このサイトにはそういう言葉から始まります。

 

自由とは、他のものから拘束・支配を受けないで、自己自身の本性に従うことをいいますが、改めて身体の自由とはなんだろうと考えていました。英語には「Freedom」と「Liberty」があり、ともに自由と訳されます。拘束、支配状態からの自由と、表現していく、選択していく自由みたいな違いでしょうか。

 

ロルフィングでもこの二つの意味合いを含んでいると思います。自由な身体を発揮出来てない機能的な制限や、閉じている空間へのオリエンテーションを解放していくこと。

 

それから、行動規制や抑圧により、自由に選択出来なかったことを自由にしていく。動きや可能性を開いていくことがあげられると思います。これらは、想像していても、理解しようとしてもなかなかイメージが湧かず、実際に感じて、身体で体現してみないとその状態は分かりにくいのです。

 

身体的な、ブロックや枷をリリースし、自由な身体を実現していくと、行動や活動に対する意識も自由になっていく方も多いです。日本に住んでいると、すでに自由だと感じる方が多いと思いますが、気づかないところで、日本の自由は、多くの忖度により制限されていると思います。身体も日本的な身体という文脈に組み込まれてしまっているように思えます。

 

伝統や美的な要素もあり、なからずしも自由であることがベストでない場合もあります。ただ一度自由になった身体を感じて欲しいと思います。身体の無意識になっていた部分が意識化され、今までとは違う身体による、世界認識も少し広がっていくように思えます。一人でも多くの方の身体を楽に、自由に。自由が合わなければそれから自分のスタイルに戻ってもいいわけですから。自由と、それからそのかたの自然体。その間とどこかに、身体を導いていくのがロルフィングだともいえます。まだみぬ、自由な身体を感じてみませんか?




 

 

頭のデトックス

知らずに掴んでいる様々なもの。手放した方が楽なのに、無意識に掴んでいることあります。もちろん必要なものはそのままで良いですが、必要ないものまで掴んでいる必要はありません。

 

身体も一緒ですね、筋肉も、固め、こわばりもそうですし、首筋のコリなどは、ちょっと頭の使いすぎ、頭の過剰適応かもしれません。必要のない想念をいくつも抱えていると、それはクビ、肩あたりまで、固めていきます。考えないようにしないとと思っても考えてしまうのが頭ではありますが、DMN(デフォルトモードネットワーク)をリセットすると、少し省エネになっていきます。脳の待機電力みたいなものでしょうか。

 

https://diamond.jp/articles/-/96972

 

瞑想とか、座禅とかもいいですし、ボディワークセッションもかなりリセット力強いです。瞬間的にリセットされてびっくりされる方もいらっしゃいます。なんで、状態が変わるのか。と何で?何で?病の方も多いですが、リセット系のボディワーク、一度体験してみてください。またセッションの中でも、頭のリセット方法、セッションの中で、身体を使ったもの紹介しています。意識や頭のデトックスです。

 

風景的な身体を感じる

アメリカで誕生したボディワークですので、セッションでは、ご本人の要望を元にゴールを設定し進めていきます。しかし、日本では、必ずしもご本人の希望が明確でない場合もあります。そしてご自分の希望とは違う話(社会的なイメージ、常識的なイメージ)をする場合もあります。その場合、少し言葉や意味合いを加えていき、方向性を限定する枠をつけていくこともあります。

 

日本人の場合、一般的な正解や対話の中での共感性を、つい口にしてしまうこともあります。自分の身体を取り戻すには自分の感じ方が大事なのだと思います。またロルフィングは、一回一回の完了セッションでなく、繋がった10回のシリーズです。セッション途中にも色々な発見もあります。

 

ボディワークなので、理詰めでない部分もあり、僕のセッションでは、体感の全体像を風景として捉え、同じコンテクストの中の、風景描写を共有しセッションの対話性を維持していきます。風景の中に見えてくるものにこそ、その人らしさである場合があるからです。

ハイコンテクスト言語である日本語の特性を生かしていると同時に、脳にも風景を感知する統合部位があり、ここを活用しているのかも知れません。

 

喪失感

大切なものを喪失した人の気持ちがどれだけ分かるのか。常日頃、考えていることの一つです。

 

例えば東日本大震災、僕の父方の実家は、宮城県石巻市。あの震災で、津波により実家は流されました。小さい頃から何度となく通った思い出のある実家です。従兄弟に手を引かれ何度となく登った羽黒山鳥屋神社。

 

通りに面した笹蒲鉾屋さん。漁港として栄えていた趣の残る飲屋街。先祖の墓へと向かう日和山。ここからの景色は本当に素晴らしかった。娘が生まれてから行った石ノ森萬画館。松島、そして仙石線ののんびりした風景。そんな石巻の風景が水没していく情景を僕はテレビで見ていました。

 

その後、実家は別の場所に建て替えられて、行くことのなかった石巻駅。昨年友人に誘われて、石巻で開催されたリボーンフェスティバル。幼き時からのイメージが一気に蘇りました。亡くしてしまった場所。亡くしてしまった魂。亡くしてしまった風景を感じながら、僕は泣いていた。

 

子供の頃思わなかった。

何かが亡くなるなんて。生まれたものはずっとあると思ってた。記憶の中の風景と変わってしまった風景に出会うことはこれまでもあったけれど、人が動いていた頃の街を知る身としては、復興ですっかり観光地化した姿を見るのは、ちょっと寂しい気がした。喪失感の残骸が街を覆っていました。失ったものを受け止める。その意味を身体で感じながら短い滞在を終えました。

 

セラピーでもあるロルフィングでも、喪失感を持ったままのクライアントと出会うことがあります。セッションという限られた関係性の中に、どれだけ喪失感と出会えるか分からないけど、身体に刻み込まれた悲しみに、ただ、だた触れるという行為で答える無力感を感じることがあります。その一方で、変化していく生きる力を感じる時があります。それには、まずその事実と向かい合わないといけません。

 

セラピティックリレーションシップというのをロルファートレーニングでは学びますが、やっぱりアメリカ人の作った基準では合わない部分は、日本人向けに少しアレンジし日本風セラピティックコミュニケーションを続けています。時にそのクライアントの言語コンテクストが開き、急に変容する場合もあるし、またある時は、しばらく手を繋いでいるような、停滞した時間を過ごすこともあります。その流れに僕は注意を向けていきます。

 

さてリボーンフェスティバルは素晴らしかったです。日本中でリボーン、生まれ変わりたい人、世代を超えて集まっていました。アーティストも、石巻時間を楽しむように、東京とは違う時間で話をしてくれました。東京で供給される情報でない情報に出会う、そんな場であったように思えます。友人が関与しているアート&ミュージックイベントでもあるし、また来年、開催されるそうなので、また訪れたいと思っています。

 

 

 

宇多田ヒカルは、喪失感は私のクリエイティビティの元になっているとインタビューで言ってました。僕もそう思います。喪失感はマイナスの経験だけではありません。生きて行く確かな力となりうる可能性があります。

 

ここまで書いて思ったのは、僕の場合、寄り添うのではなく、向かい合っていくというのが、セラピストとしてのスタンスのようです。無力感に止まらない場所まで共に歩んでいくことができると思います。人間の再生を力を信じて。

タンポポ

フーッて、子供の時、よくやりませんでしたか?

僕はよくやりましたね。

 

風に乗ってフワフワと空に舞い上がるたんぽぽの綿毛。

どこまで飛んで行くのか。 

 

風に乗ると数百メートル飛ぶそうです。

ちょっとした旅ですね、タンポポの綿毛の冒険。

 

とりあえず、我々人間にとっては深呼吸になりますね。

見つけたら、フーッとやって見てください。

 

それが、タンポポの冒険の旅を応援することになります。

これも一つの関係性。 

 

さてタンポポの花言葉は、

『真心の愛』、『愛の信託』、『神のお告げ』、『思わせぶり』というのがあるそうです。

 

そして、もうひとつ『別離』という花言葉があるのだそうです。

旅に出て行く姿が、別離なんでしょうかね。

 

それは、新しい冒険の旅、

ポジティブな別離なんでしょうね、きっと。

輝く月のように

今年の中秋の名月は、9月24日です。

 

中秋の名月とは、太陰太陽暦の8月15日の夜に見える月のことをさします。中秋の名月を愛でる習慣は、平安時代に中国から伝わったと言われています。もう千年は続いている習慣ですね。

 

千年に一度の自然災害が頻発している現代。我々自身もまた平安時代のような心と、そして身体の再構築が必要になっている時かもしれません。お月様を眺めながら、秋の夜長を楽しみましょう。

 

中秋の名月は、美しくその姿を現します。見えない影の部分もほとんどなく、全てを見せてくれます。その姿、心に重ね受け取りましょう。

 

開いた心は、開いた分、露わになり、あなた自信を映し出します。

月と共に、この時を感じてみましょう。

分け隔てない月と私が、これからの世界を照らし出します。

 

また来年、出会えますように。

暗闇から手を伸ばせ

近年はすっかり頭脳労働が増えてきました。

 

頭脳労働でなくても色々頭で考えて、ストレスを抱えて、モヤモヤするような状況が増えているような気がします。身体的にいうと例えば考えるということにして健康的なのはやはり集中力です。

 

具体的にいうと、集中して徹底的に考える。あるいは一切考えない。というメリハリが大事です。

 

中途半端に考えている状態、悩んでいる状態、のような葛藤が長引くと、行ったり来たりループしていきます。結果的に待機電力が大きくなり、頭は疲れていきます。脳には優秀なDMN(デフォルトモードネットワーク)という無意識の自動運転スイッチがあるのです。ここに葛藤を多く抱えてしまうと、頭は疲れ続けることになります。次第に現実の中に暗闇が増えていきます。

 

DMNを更新、活性化していくのにはどうしたらいいかというと、マインドフルネス瞑想や座禅とか、身体性のある集中状態か、あるいは一切を感じない無を感じるというのが、全体性を使う、あるいはリセット力があり、いい感じです。

 

筋肉も同じ感じです。筋肉は本来、緊張と弛緩を繰り返すのが正常な状態で、中途半端なバランスを取ってしまうと、その拮抗にエネルギーが使われ、疲れやすくなります。デフォルトの待機電力が多くなるからです。症状としては凝りとかこわばりみたいな感じだと思います。寝ても疲れが取れないなどいうのは、きっと体のどこかで、葛藤的な拮抗状態が保持されていることでしょう。身体の中に暗闇が増えていきます。

 

 

身体的な瞑想や座禅はどうしたらいいのかというと、脳波でいうと、シーター波的な状態でゆっくりするということが全身の緊張がほぐれてくる感じです。凝りだけの問題ではなく、全体の整える力を復活させていくことが本質的であり、効果的だと思います。

 

拮抗や葛藤は、大切なことですが、あまり長引くと健康を損ねる方向で、頭や身体、ひいては心を痛めていきます。こうなるとバランス調整力が乱れ、悪循環が始ります。まさに暗闇みたいな感じです。暗闇に陥ったら抜け出す、そんな健康状態へとシフトしていく、身体に違和感が続いているなら、そんな自分を変えていく勇気を持ってみませんか?

 

ロルフィングで扱うのは、特別な施術でも魔法ではなく、人間の持っている回復力、調整力を如何に引き出していくか?という自然なメソッドです。解剖学、生理学、身体技法、メンタル、精神生物学を踏まえた、身体を再構築していくものです。

 

新しい身体的な感じ方があなたの中から暗闇を少なくしていきます。

暗闇を感じ始めたとしたら葛藤から抜け出したいという身体的なサインかも知れません。

 

人生の岐路で

RCサクセションの忌野清志郎さんと、シャ乱Qのつんくさん。一世を風靡したロックバンドのボーカリスト二人は、ともに喉頭がんに襲われました。

 

清志郎さんが「歌」を選び、武道館で劇的な復活を遂げ、その1年3ヶ月後、この世を去りました。まさに、夢を追ったロックな生き様でした。

 

一方、つんくさんは喉頭を摘出する手術を決断しました。

そのときの心境を著書でこう綴りました。「なにより妻と子供のために、僕は生きなければならない。歌い手として声との別れは本当に苦しい。でも、命の代わりはない。僕の代わりもどこにもいない」

 

どちらもある決断をし、それぞれの生き様を世に示しました。自分で選んだ自分の人生。そこには、いい、悪いは、ありません。

 

 

「命を続けながらロックを歌い続ける。」そんな第3の道って無いのかな〜

我々オルタナティブなホリスティックプラクティショナーはつい、

身体知性に聞いたりしながら、夢想しながら、そんなことを考えてしまします。

 

 

さて、

ロルファーをしていると、人生の決断の場面に出会うことがあります。

「テツさんだったら、どうしますか?」

 

 

考えてみると人生の岐路に立つような状況で、

ロルフィングを受ける人が多いのかも知れません。

 

人生の岐路で身体の声を聞く。

とてもいいタイミングかも知れません。

 

 

 

 

さて、清志郎を追悼し、矢野顕子との清志郎のデュエット曲。やはり、この声だから。

声をなくしたつんくの曲を、華原朋美バージョンで。ありがとう、さようなら。

内視鏡検査

 

 

胃の内視鏡検査を受けて来ました。前回受けた時は口からでしたが、今回は鼻から。前回よりもぐっとスムースに検査は終わりました。

 

内視鏡は、ボディワークでも扱う鼻エリアを更に奥まで進んでいきます。声帯を抜け、食堂を抜け、胃の中へ胃の出口から、十二指腸あたりまでをライブ動画で自分で見ながらの検査です。胃や腸も身体の外からマニュピレーションで扱うこともありますが、カメラ目線の臓器体験はまた違う次元での出来事ですね。人体は興味深いです。

 

 

NHKスペシャルとかでは映像や、CGではよく見ていた姿ですが、やはり自分のものとなると、少し手に汗握る、ドキドキする冒険のような体験でした。

 

綺麗な胃です。問題ないです。ピロリ菌もいません。と告げられ、ホッとする気持ちと、将来のいつかに、何かの病巣が発見され、治療に向かわされる可能性もあるのかと思うと、あまり楽しい経験ではない気もします。もちろん早期発見、早期治療が医学的にはベストなんですけどね。

 

勉強になったのはお医者様の言葉。心配にならないように、安全に、安心に進んでいる様子を伝えながら、検査が流れていきます。同じことをいう場合にも、言葉の使い方、トーン、音が醸し出す雰囲気など、素晴らしい流れでした。セラピティックリレーションシップ、同じ対人介助職、セラピストとして見習う部分が多かったです。

 

さて胃カメラ検査では、ゲップもオナラもヨダレも鼻水も検査中は垂れ流し、日常とは別の意味に変わります。通常モードから離れて、検査モードになる方が、胃にとっても、ストレスがないと思いました。

 

ロルフィングでも、ディスチャージする中で、涙、ヨダレ、オナラ、鼻水が、出てしまう場合あります。セッション中は、「ここは、特別なセッションの場」、そう思って、安心して、自然状態で受けて貰えればと思います。

 

ロルフィングは、身体をニュートラルにする機会です。

落ち始めた身体の機能を取り戻す、構造的にズレや歪みに正して見たい、姿勢をよくしたい、

など自分をニュートラルにする、体細胞の力を引き出してくる特別なセッションです。

 

全ての方に、自分の身体的な行き詰まりを打開する方法論の一つとして、一生に一度、受けて貰いたいと思っています。

 

モチモチの木

 

本を読む子ではなかったけど、このお話は読んだみたいでよく覚えています。童話の影響は絶大で潜在意識で我々のその後の人生を影から守ってくれますね。

 

その後の人生でも、内気な僕は、何か困った場面、恐ろしい場面では、馬鹿の一つ覚えのように、豆太のごとく全速力で走って行った気がします。

 

全速力で走るしか知恵がありませんでしたので、転んだり、頭ぶつけたりして、泣きながら前に進んでいった気がします。

今更ながらですがもっと童話読んでおけば良かった!

 

小さいお子さんがいらっしゃる方、子供のうちに沢山の読み聞かせしてあげてください。絶対に将来役立ちますから。ただあまりに沢山読みすぎるとコンテクストが多すぎて将来困るかもしれません。

(世の中のお母さま、あまり頑張りすぎずに適度に読み聞かせしましょう!)

 

変化球を知らない1コンテクストでしたがシンプルがゆえ、それでも死なずになんとか生きながらえてきました。

その度その度に、どれだけのモチモチの木、燃ゆる景色を眺めてきたでしょう。一つ一つが僕の宝物です。

 

閉院のお知らせ

最近15年ほどお世話になっていた歯医者さんから閉院のお知らせが届きました。

 

始まりあるものは終わりある。確かにそうでしょうが、突然の別れの知らせに、少し感傷的になり、心に響くものがありました。

素晴らしい先生でした。スタッフも素晴らしかった。医院の雰囲気、空気感、間合い、存在、在り方がとても良かった。生まれたものはずっとあるものだと思ってた。でも何事も終わりがあるものです。

 

思えば、色々な病院にはお世話になってきました。

生まれた病院の先生、骨の弱かった僕が度々お世話になったのは柔道整復師の先生、駅前の歯医者さん、入院した病院の看護婦さん、掃除のおばさん、旅行中のシドニー行きの列車で熱を出し倒れ、たどり着いた内科の先生、我が娘を取り出した先生、痛風になってあまりの痛みに耐えながら駆けつけた病院の先生、先日の胃カメラを担当された先生、思い出せば、数十人もの病院の先生たちに、そして彼らの技術と笑顔に、救われて、この歳まで、五体満足で永らえてきました。

 

気がつけばアメリカのホリスティック医療プラクティショナーの資格であるロルファーになっていて、ある面では、身体改善させていく立場でもあります。しかし、これまで人生で出会ってきた病院の先生や医療関係者の方々と、同じ枠に入るのは、自分的にはちょっとおこがましいと感じてしまいますが、出会ったクライアントとは、しっかりと向かい合って、自分にできるものは全て出してセッションに臨みたいと思っています。

毎年何名か、お医者さん、医療関係者たちもロルフィングを受けにきてくれますね。

 

 

さてハガキにはこう綴られています。

開院以来、地域に密着した親しみやすいクリニックを目指し診療を続けてきましたが、建物の老朽化と院長の高齢化の為、本年末を持ちまして閉院します。

 

**先生。15年お世話になりました。そして開院から42年間、お疲れ様でした。

ありがとうございました。あなたに救われた患者はたくさんいると思います。お元気で。

 

さて 少子高齢化のニッポン、これから全国でこういう場面が繰り返されて行くのでしょう。

現実を受け取らなくてはいけませんね。日本社会は、今変革中です。

東京では実感が湧いてくるのはまだ10年ほど先になりましょうが。それは今後の政治の在り方にもよりますね。

 

 

さて歯医者といえば虫歯、虫歯ポーズ知ってますか?

小顔効果があることからモデルやプリクラ、インスタなどで広まっています。

頬の横に手を当てるポーズ。

虫歯を痛がっているように見えることからそう呼ばれるように。 

あなたも写してみよう虫歯ポーズ。

取材記事

 

 

昔の雑誌の取材記事の切り抜きが出てきたので、一度ブログに載せておきます。

 

多分、2012年くらいだと思います。

今週末に、久しぶりに取材の方がいらっしゃいます。さて何をお話しましょうか。

 

渋谷雑記2018/9

 

渋谷ストリームがオープンし、新しい渋谷の風景が姿を表し始めています。渋谷ストリームから並木橋方面に、渋谷川沿いがライトアップされ遊歩道になり、渋谷ブリッジ手前の芝生エリアまでオープンスペースが広がりました。新しいホテルが二つオープンしました。

 

表側の明治通り沿いが人が増えて歩きづらく感じていたので、渋谷駅へと向かうこのまっすぐの、和み系裏道の完成は、ビジターだけでなく、渋谷の住民にとってもちょっと嬉しい感じです。街は生きています、日々少しづつ変化しています。

 

それにしても来年完成の新東急プラザ、新パルコ、駅前のスクランブルスクウェアなど、渋谷は巨大開発が続いていて、一体どれだけのお店が新しく出来るのでしょう。外国からの旅行者が増えていることもあると思いますが、それだけの需要があるのかちょっと心配になります。80−90年代の渋谷復活?主役は外国人と老人か?

 

人口動態も変わっているのか、近所の幼稚園、園児はたくさんいます。新しい保育園もまた出来ました。30代の当時、職住接近の為に引っ越してきた渋谷ですが、気がつけば50代になり3歳だった娘は大学生に、家族の風景は変わりました。郊外にいる時はもう少しゆったり生きていた気がします。渋谷に来たあたりから仕事が忙しくなり、仕事と運動ばっかりしていた気がします。ロルファーになってもその癖が抜けきれず仕事していましたね、笑。 体に染み付いた癖は、すぐには取れないものですね。ようやくここ3年で落ち着きを取り戻し、昨年、制作業務を手放しました。

 

今日は、久しぶりに、制作時代の仲間に会いました。あの時の仕事の時は楽しかったね、とか昔話の様な、そして、これからこんな事をやるとどうだろうという、今の世の中のオルタナティブな話をいくつかしました。問題意識を持っている人間と話すのは楽しい時間ですね。立場はお互い変わりましたが、また何か一緒に出来るといいね、そんな話を最後にし、渋谷川ぞいの遊歩道を通って駅まで見送りました。

 

昨日の帰り道、通勤路にある花屋さんで、ナツザクラの小鉢を購入し、家の書斎コーナーの机横に置きました。身の回りに花やグリーンがあるといいですね、パソコン作業の間の目の休めになります。

 

そういえば結婚したての頃は,ガーデニングが趣味だったこと思い出しました。あの頃の、我が家は花と緑であふれていました。いつからガーデニングしなくなったのか考えましたが、正確な記憶はなく、多分、忙しくなって段々やらなくなってしまったのだと思いました。忙しいというのは、本当に心を失うことですね。少しづつ、自分の周りに花とグリーンを復活していこうと思いました。

情熱の嵐

 今年の驚いた事の一つに、西城秀樹さんの逝去のニュースがありました。

 

2003年、ディナーショーのため訪れていた韓国で脳梗塞を発症。声帯も損傷し歌える状態ではなく引退会見。その後ファンや家族の励ましや期待に応え、芸能活動を継続しながら回復に励む道を選びました。

 

自分の闘病体験が同じ病気を患った人たちへの役に立てればと、医療関係のシンポジウムなど講演も積極的に行い、また歌手として復帰する為に無くした声帯の神経の周辺の神経を刺激し鍛えるボイストレーニング法に取り組んでいました。

 

2011年に脳梗塞が再発していることが判明、右半身麻痺の後遺症が残りましたが、リハビリに水中運動を取り入れ、筋力をつけることで立つことには支障が無くなり、再びステージに立つまでに回復、その姿は、人々に生きる勇気を与えました。その後も活動を続けながらリハビリに励みんでいましたが、2018年5月16日、リハビリ中に意識不明になり死去。享年63歳でした。

 

声帯周り、そして身体全体を使う筋力トレーニングやリハビリで改善していく様子に、ボディワーカーとして注目していましたが、最初に損傷した脳梗塞的な状況に最後は天に召されたのでしょうか。脳の使い方、脳に刻み込んだ信念体系をシフトするのは、並大抵のことではありません。頑張ること。誰かの期待に答えること。そして自分はこうであるという強い思い込み、強すぎる情熱などの、信念は、時に自分さえも奪っていくことがあります。

 

平均寿命が80歳を超えた今の普通の感覚だと、63歳は早い気はしますが、「情熱の嵐」の中を生き抜いた昭和を代表する歌手は、その生き様を示し続けた、そんな風に映りました。昭和というのは、そういう頑張り続けることが、常識であった時代なのかもしれません。そういう時代は、ダイナミックで、風が吹き、雷が鳴り、時に我々に落ちてビリビリと痺れて、我々を激流に導いてくれます。エネルギーに満ちて彼の周りは天国と地獄が現れます。

 

雷のあたりどころが悪いと時に命を落とします。その反面、情熱の嵐に包み込まれている間は、幸せを感じているのだと思います。それも人間性のある一つの体現です。いい、悪い、ではありません。昭和生まれの中にはまだまだ、情熱の嵐を生きる熱い人が沢山います。

 

 

さて現実の社会は昭和は過ぎ去り、平成になり、社会から、情熱や強い関係性がなくなり、乾いた時代と言われます。強いファンとの関係も、日本語のようなハイコンテクスト言語に生きている亡霊のような命がけの言霊とも、いい関係性を作ることを求められる時代です。

 

自分を頑張る時代、しかし頑張り過ぎない時代。身体から自分自身を探しましょう。ニュートラルな身体性があなたを導いてくれるのだと思います。まだまだ頭でっかちに、まだまだ辛い人間関係や明治時代、下手すると江戸時代の言語に生きている人も多いです。どうせ戻るなら平安や奈良時代、いやいや縄文まで戻るとしっくり来ると思います。

 

今の自分自身を感じる為の学びと気づきが大切だと思います。身体からニュートラルに。

 

 

さて西城秀樹を追悼し、「情熱を嵐」を。