桜見に行かれましたか?

 

今年は、吉祥寺での練習でさくら独唱を歌い、頭の中を曲が奏でられている中、井之頭公園の桜の中を歩いているうちに、宵の時間となりました。いせやの前を通り、大混雑の中、駅へと向かいました。昨年は大阪、万博公園の桜を観たよう記憶しています。毎年毎年、そんな風に記憶を上書きしながら、新しい桜のイメージを自分の無意識に書き込んでいるのでしょうね。

 

 

僕らはきっと待ってる 君とまた会える日々を

さくら並木の道の上で 手を振り叫ぶよ

 

 

春は別れの季節であり、出会いの季節でもあります。別れと出会いは、どこかで繋がっていて、どこかでセットになっているのだと思います。出会いや別れとは、他人とのことをイメージされることが多いと思いますが、自分の中での出会いや別れというのもあります。それは無意識下で働いていて、意識が気がつかないこともありますが、自分の中の気持ち、想い、無意識で、様々な攻防が繰り広げられています。それを葛藤と呼びます。体だと凝りや違和感ですかね。。。

 

 

 

どんなに苦しい時も 君は笑っているから

挫けそうになりかけても 頑張れる気がしたよ

 

 

 

 

自分とは、出会ったものの数だけいる大所帯であることが多いです。自分の内側のことだから自分では気がつかないだけです。そんな無意識下の自分と出会って、手を振り、叫ぶことも、たまには有ってもいいかも知れません。何かと出会うというのは、自分の中にいる新しい自分にあなたが出会うことかもしれませんね。

 

 

 

今なら言えるだろうか 偽りのない言葉

輝ける君の未来を願う 本当の言葉

 

 

 

さて4月です。

新元号は「令和」と決まりました。

あなたの中でも、新しいことば、新しいからだと、出会いましょう。

人間は星だ!

 

「人間は星だ!って、教壇に立って、熱く語っていた60歳近い年齢の教師だったという三木成夫教授。東京芸大の教授でもあった独自の世界観を持つ細胞学者です。学生時代に読んだ本の中の印象的な1冊です。

 

 

あの当時は、フーンと読んでたけど、ボディワーカーになった今、その言動はどれもそうだよね、って共感できるから不思議です。きっと身体を研究していくと、きっと見えてくることは一緒なんじゃないのかな。身体的に開いて、共振していくと、本には書いてない、言葉になっていない生命情報に、我々は直接意識は出会っていくのだと感じます。

さてフェイクニュース溢れる情報化社会、信じれるのは何ですか? テレビ?ネット?書籍?友人の言葉?それとも自分の知覚?

 

 

Regenerationの中で3度使ったのも星空。表現力がなくて、初めて作った映画で、再生の時への想いを込めて描けたのは、悲しいかな、それが精一杯でした。人間というのは、一体どれだけ経験をし、どれだけ描いていけるのでしょうか。僕がロルファーになってから感じた身体的な体験は、この先どれだけ表現出来るのでしょうか。ギルガメッシュ叙述詩のような壮大な物語が、なんどもなんども僕の意識の中に現れては消えていきます。そして目で見える星ではない星々の輝きのようにずっと煌めいています。やはり人間は星なのです。

 

 

 

 

人体 5億年の記憶: 解剖学者・三木成夫の世界

 

私たち人間のからだは、魚であった時代の名残をたくさん抱えている。たとえば、私たちの顔で表情をつくり、口を開いて声や言葉を発する筋肉も、魚だった時代の「えら」の筋肉が変化したものだ。水中で生活する魚類では、顔面に味覚を感じる細胞が集中したが、上陸に伴い、ヒトでは乾燥を避けて口の中の舌でのみ味覚を味わうようになった。東京大学の医学部の学生が特別講義を聞き終わった後、感動の余り拍手したという伝説の解剖学者、三木成夫の話術は、保母さんたちを相手にした一般講演でも笑いが絶えなかったという。そうした絶妙な語り口に、入学したばかりの大学生だった著者も強く惹かれていく。不世出の天才、三木成夫の「人間の見方」の全体像を、ひとつのまとまりのある本として読者に提供すること、これが本書の挑戦である。解剖学は難しくない、人間の体や心の見方が180度変わる。

 

体と仲直りする

今までは、身体が疲れたりコリがあったりすると、時間をかけて解していく必要がありました。でも、今は身体が楽な状態のことを思い出すだけでいいんです。自然と、身体が一番楽な形を思い出してくれる感じなんですよね。そこがロルフィングのいいところであり、説明するのが難しいところでもあるのですけれど(笑)。(→全文

 

 

(ロルファーコメント)

知覚と意識が身体のホメオタシスと出会うと、こんな風に楽な体が実現されます。もちろん彼女の場合、俳優という職業から来る繊細さや、体現する力も、あるとは思います。イメージすると、そのイメージに体が応えていくれる。生きていてそんな素敵なことはありません。でも、全ての人に、自分の体があり、自分の体といい関係を結ぶ、そんなトライアルだと思います。

治す、という発想を手放す、その時良くなるのだけでなく、ニュートラルの体になる、一生に一度のロルフィングが、あなたと体との関係性を変えていきます。体の声を聞いて、自分を前に進めて行きましょう。

thriller

Who's gonna die first ?

最後まで生き残るのは誰?

  

学生時代の友人にメールした。

「おーい、生きているか?」

しばらくして返事が返ってきた。

「生きているよ、辛うじて。」

生存確認。

 

 

荒川修作はこう言った。

「人間は死なない。」と。

 

 

「何才まで生きたいですか?」

今日来たクライアントとそんな話が出た。

「85位まで生きれれば御の字です。」

 

 

「先生は?」

「僕は104歳まで生きるつもりです。」

ビックリしている方、最近はルール変更で、

人生百年時代ってことになってます。

 

え!そこまでお金足りるかな?

人生設計変更したい。

ボケた姿を見せたくない。

頭は色々考えます。

 

長生きしていくことも大変です。

やはり人生真ん中くらいでニュートラルになっておかないと、

あとあと大変です。

葛藤を老後に持ち越すと、

それは脳的なダメージに繋がります。

 

そしてそれは健康年齢が上がっていきません。

健康年齢を上げていくこと。

これが日本にとっても、個人にとっても大切なことなのです。

 

 

 

ずっと生きていく為のセッション。

生き残るためのセッションをしているなと思います。

死んだ人も蘇ることもあります。

そんな場面になんども立ち会ってきました。

「今ここ」に連れ戻すのは、こっちも命がけです。

 

また別の友人にメールをする。

「おーい、生きているか?」

まだ返事がこない。

 

 

そういえばその昔、マイケルジャクソンは、ゾンビを従えて踊ってたっけな。

ダンスでゾンビも踊り出す。

これは有名なThrillerです。

LOVE SONG

いつの時代も、LOVE SONGが歌われ続けてきました。

 

 

ほら あなたにとって大事な人ほど すぐそばにいるの

ただ あなたにだけ届いて欲しい 響け恋の歌

 

僕は何回だって何十回だって

君と抱き合って手を繋いでキスをして

思い出す度にニヤけてしまうような想い出を君と作るのさ

 

ただ 泣いて 笑って 過ごす日々に

隣に立って居れることで

僕が生きる意味になって

 

 

生きてる意味も その喜びも

あなたが教えてくれたことで

「大丈夫かも」 って言える気がするよ

今すぐ逢いたい その笑顔に

 

もしもこの世にあなたが 存在していなかったら

100ある笑顏のうち 少なくとも40は無くなる

もしも地球の裡側 あなたがいると分かったら

無くなった40の笑顏 取り戻すため海を渡ろう

 

例えば君の顔に昔よりシワが増えても それでもいいんだ

僕がギターを思うように弾けなくなっても 心の歌は君で溢れているよ

高い声も出せずに思い通り歌えない

それでもうなずきながら一緒に歌ってくれるかな

 

全部知ってる曲でしたか?

あなたの心の中で、どんなラブソングが流れていますか?

その前に恥ずかしくなってしまった!なんて人いませんか。

恥ずかしいってなんだよー^ ^

 

ラブソングが現役の人も、リタイアされた人も、

たまには、ラブソングを口ずさんでみませんか?

 

 

 

LOVE SONGは時代と共に変化してきています。

最近発売された、LOVE SONGなる曲はこんな曲でした。

自立とバウンダリー

 

自立とバウンダリー。新しい時代のニュートラルとして、一度は考えたいテーマです。自立、自分で立つ事です。そしてバウンダリーとは他者との境界線です。なかなか本を読んでもセミナーに出ても分かりにくい概念ですが、あなたの身体で体感すると、理解も早いです。あなたがじ自立しているか、そして環境との関係性は適切か、一緒に感じてみませんか。

 

自立とはなにか。考えてみると難しいです。決して経済的なことだけをさしているわけではない気がします。私ごとですが、我が家は商売をしていて、酔っ払った父から社会に出て一人前になるまで10年家に帰らなかったとか、父はよく一人前になることについてよく話していました。それを聞かされて育ったものですから、世の中の普通から比べると、僕は、自立プレッシャーを抱えて二十代を過ごした気がします。

 

結局父に認めてほしいという関係性の忖度の中、無意識に32歳に起業したわけですが、今から思うと父もそこまで望んでいたわけでもない気がしています。期待に応えるという無意識に伝わってくる無言の忖度というのは、人や人生を変容させていきます。思い込みは恐ろしいものです。

 

時代の変化もありますね。あれから時間は過ぎ、時代は令和の時代になりました。今の基準でいえば、自立とは、周囲との関係性を維持しながら自分らしく生きていくことだと思います。自立の感覚がわかればバウンダリーは定まっていくと思います。渚のように波が行き来する砂浜のようなバウンダリーで、生きていることを感じながら楽になっていきましょう。人生は楽しみながら、自分らしくなっていく旅のようなものだと思います。

 

 

さて、僕は今週は少し旅の出てきました。旅に出ると普段と違うことがあります。いろいろな事が分かります。旅先での出会いと別れ、新しい発見と気づき。日常にいてはわからない事が旅に出ると分かります。旅から戻ると、ちょっとだけ新しい自分です。身体と意識で対話を始めましょう。

 

 

 

 

メトロノーム

米津玄師、大人気ですね。

メトロノームの歌詞でこんなフレーズが出てきます。

 

きっと僕らはふたつ並んだメトロノームみたいに

刻んでいた互いのテンポは同じでいたのに

いつしか少しずつ ズレ始めていた

時間が経つほど離れていくのを止められなくて

 

確かにそうなんです。

そのまま下に置いておくとそういう風になっていくのです。

      

しかしです。

 

メトロノームを同じ台の上で乗せておくと、なんと共振現象というのがあって、

なんと次第に共振をはじめ、最後には同じリズムになってしまうのです。(下のビデオ参照)

 

 

大切なのは同じ台に載せるってことです。

同じ台に乗っていること。

僕らは同じ船に乗っているようなものなのに、同じ地球に住んでいるのに、

なぜか人間は共振しないことも多いですね。

何故でしょうか。

 

共振するためにはまずグラウンディングを感じることが大事です。

今自分がどこにいるのか?

 

そして自分が何者か?というのも大事ですね。

記憶というのが邪魔することもあります。

記憶が今の邪魔をする。

歴史を見てみれば、そんなことは沢山あります。

 

記憶というのは捏造されたり、創作されることもあるのです。

個人の真実、記録。写真。

真実と事実の違い。

人が思うこと全て真実なんです。

 

心理の世界で個人的なトラウマさえ、

半分はそう感じたという自我、固有感覚の創作だと言われます。

変わりたくない、間違えたくない我は、

現実を自分視点で物語っていくのです。

 

気づき。

そして、今を生きるという、主体性。

 

今、見ている、今の現実に意識を持って来れば、

自分がすることは1つしかありません。

一番素敵な自分自身で生きることです。

 

自分がわかること。

自分がなんだか分かっていればいいのですが、

忘れている人、自分ではなくなっている人、多いです。

 

自分を知る。

自分のことを本当に知りたいなら、自分の一番身近にいる体に聞いてみるのはいかがでしょうか?

「自分自身」とはよく出来ている言葉ですね。

 

自分の身体との対話、はじめてみませんか?

体の専門家、ボディワーカーである僕がガイドです。

 

                        

ノートルダム

今朝のニュースでノートルダム大聖堂が燃えている映像が飛び込んで来ました。

 

フランス好きの僕としては、思わず、あ!と声に出すくらい衝撃が大きかったです。塔が燃え落ちる場面を見て、心が痛みました。天井はほとんど焼け落ちてしまったそうです。

ノートルダムの怪物群、ガーゴイルたちは、無事でしょうか。

 

 

ノールルダムは、 1163年、日本でいうと平安時代に着工された世界遺産でもある建物。フランス語で「私達の貴婦人」という意味で、聖母マリアを指しています。ノートルダムを冠した教会堂は世界各地のフランス語圏の都市に建てられてきました。その一番古いものがこのパリのノートルダムで、フランスの文化的象徴の1つです。

 

 

パリはこれまでに2度訪れていて、思い出多き街の一つです。ノールダム大聖堂を初めて訪れた時の、神聖な体感は、時空を超えて今でも鮮明に憶えています。パリの方々の心情を思い、祈りたいと思います。(添付はカッチーニのアベマリア、映像は在りし日のノートルダムです。)

 

 

先週、滞在した京都で利用したホテルは少しフランス風の趣でした。宿泊客も大量のフランス人観光客で、ちょっとした海外旅行のようでした。

香水の匂いと、フランス語の響き、朝食を共にしたフランス人たちの眼差しなどがまだ体に鮮明です。

  

 

宗教関係なく、ただひたすらに、合掌です。

頭がグルグルする

病院に行っても異常なし、どこも悪くないと言われるのに、違和感がある。

頭がぼーっとしたり、グルグルしてくる。

 

今まで無理してきたこと、頑張ってきたこと、がなんとなく嘘っぽく思えてくる。私は本当は何をしたいのだろう。何が大切なんだろう。考えても分からないのに、思いは次から次にやってきます。

 

相談しても、応援されても、結局決めるのは自分、自分を全部感じて、次を作っていかないといけないと思いつつ、面倒臭くなって、現状に停滞している。そんな自分と折り合いを付けながら日々を過ごしている。

 

そんな中で、身体症状がで始めた。最近はそんな相談も多いです。

動かない、動けないことへの葛藤や、変われない、変わりたくないことへの葛藤。様々な葛藤が、脳を痛めつけます。現代社会は、現実に、過去の自分も、未来の自分も並存しているし、更に無意識には自分ではないものをたくさん内在して生きていると言っても過言ではないでしょう。

 

統合の時代と言われて久しいですが、統合というのは、痛み分けの部分もあって、なかなか進んで来なかった統合です。葛藤から抜け出れない方々、身体統合から自分を統合する道へ歩み出してみては如何ですか。言葉じゃなくて、体で感じ直す自分自身です。

 

トキメキ

 

近未来のデジタルは、我々のアナログ性を超えた情報環境に、現実感を超越した自然な現実感が日常を覆っていくことが予想されています。世界中の知覚体系に革命が起きていくことでしょう。個人、個人同士の関係性、そして人間全体の過去と未来が、今、現在で出会う、そんなことが世界中で繰り広げられていく姿が想像されます。

 

ホンモノよりもリアリティの時代、トキメくかどうかで、日常を整理整頓しましょうって、コンマリも言ってましたね。

 

でも心が開いてないとトキメクものの範囲も狭まってしまいます。

トキメキとは、期待や不安などで、胸がどきどきする。心がおどること。安心感だけだとトキめかないのです。

 

つまりトキメキには方向性がありません。

無意識にトキめいたものが、トキメキなのです。

 

さて僕のセッションでは、トキメキと、安定感を、

交互に感じて貰うことを繰り返すところから、自分の体と、出会っていきます!

 

 

ときめいてますね! 

→あるクライアントの10シリーズの感想) 

 

触れる

 

「ロルフィングって、どうやって、やっているのですか?」とよく聞かれます。

「どうして触れているだけなのに、体の状態が変わってくるのですか?不思議です。」

 

そう言えば、我々は、触れるとは何か?ということについて、よく考えたことがないことに気がつきます。

手がどれだけ凄いものか、

 

最近は、スマホみたいに押す以外の触れるが出来なくなってしまうのではないかと、ちょっと危惧する思いもあります。

 

 

 

辞書を引いてみました。

 

触れる。

 

㋐ある物が他の物に、瞬間的に、または軽くくっつく。ちょっとさわる。「肩に―・れる」「機雷に―・れる」「外の空気に―・れる」

㋑脈が反応する。脈拍を指先に感じる。「脈が―・れなくなる」

㋒(「耳(目)にふれる」の形で)ちょっと耳にしたり見たりする。「人の目に―・れる」「耳に―・れるうわさの数々」

㋓あることを話題にする。言及する。「食料問題に―・れる」「核心に―・れる」

㋔ある時期や物事に出あう。「折に―・れて訪れる」「事に―・れてからかわれる」

㋕規則・法律などに反する。抵触する。「学則に―・れる」「法に―・れる」

㋖怒りなどの感情を身に受ける。「勘気に―・れる」「怒りに―・れる」

㋗感動・感銘を受ける。「心の琴線に―・れる」「心に―・れる話」

 

㋐物に軽くくっつくようにする。「髪の毛に手を―・れる」「花に手を―・れる」

㋑広く人々に知らせる。「隣近所に―・れて回る」

 

3 食べ物にちょっと手を付ける。

「朝餉 (あさがれひ) のけしきばかり―・れさせ給ひて」〈源・桐壺〉

 

 

 

言語になっているだけでもこれだけのことに触れれた訳です。さらに言語化されてない部分も入れると、触れるというのは、ものすごい沢山のことが出来ることに気がつきます。長い歴史の中で、道具や機械化によって、我々は、触れることの意味を限定し、触れれたものを過去にしてきてしまいました。昔の人は色々なものに触れることが出来たのだと思います。

 

ロルフィングでする僕がする触れることも、こうして辞書の意味を読んでみると、この中に入っているような気もしますが、そんな触れる本来の機能の1つだと思います。古くて新しい、人間本来のスキルの一つだと思います。

 

 

 

自分が出会った情報、縁を大事にしている

情報化社会と言われて久しいですが、クリエイターと言われる人たちでも、社会を流通している情報を全て把握していることが難しくなったと言われます。

 

現在、全ての人が何かしら偏った情報と接している可能性があります。偏った情報を元に発信し、さらに情報化を進めているような現実があります。全てその人が感じた真実なのです。そして、様々な視点から語られる真実、一体どれが本当なのか分からなくなり、ふわふわしてしまっている人が増えている気がします。

 

 

先日、とある映像クリエイターの方と話していて、情報過多に対する対応として彼が言っていたのは、「自分が出会う情報、出会えた縁を大事にしている」「その上では、自分のスタンスが大事だと思います」という風に話していました。

 

縁あるものと出会うためにも、情報が自分に必要なものか、必要ないものか判断する上でも、自分の知覚というのが大事だと思いました。

 

頭で考えるメリット、デメリットだけでなくて、自分の身体の状態、知覚を取り戻していることが大事です。20年前、30年前の現実感でなく、今の身体感覚で生きていく為にも、身体のニュートラル、自分の感性の取り戻すことは、大事なんだと改めて思いました。

 

 

逆にいうと、新たなる偏り自体が自分の個性だと思います。全体性を感じ、そして個性を知る。個性を伸ばしたり、変容させたり、個性の活性化、再構築。オリジナルコースであるアウェアネスコースでは、そんなことをやっている気がしました。

 

 

僕の中ではクリエイタースクール時代の経験や、雑誌のクリエイター企画を制作していた頃の経験が生きています。自分が経験した経験は、別の場面だと違う働きをするものです。自分を、「今」に連れて来ましょう!

 

 

 

 

筋膜の可能性

 

扱うものは色々と変わってきているけれど、広義の筋膜の世界での介入ということをしています。繋ぐものである筋膜のネットワークとどう対峙していくのか。このセッションは、何のセッションなのか、関わり方、関係性、方法論、目的。気づきなのか、再構築なのか、治癒なのか、認識なのか、変容なのか。色々なことを考えながら、セッションを行なっています。

 

この本は、2016年以降、僕のセッションスタイルの筋膜の方のベクトルの広がりを開いていった1冊です。(もう1つの方向は心理学。)ロルファートレーニング時代に教わった先生もこの本の編纂に関わっています。

 

 

僕のセッションを受け、変化が不思議だと思う方で、原理原則をもっと知りたい方、一体何を考えてセッションしているのだろうと興味が深い方向けの解説書になると思います。ロルフィングの枠組みを超え、筋膜に対する包括的な研究書です。

 

 

 

 

 

 

内容紹介

 

●身体全体にわたる張力ネットワークを形成し,すべての器官,あらゆる筋・神経・内臓などを覆って連結しているFascia(膜・筋膜)に関する研究はここ30~40年ほどで大きく発展し,今後さらに臨床における“筋膜”への比重は大きくなっていくものと思われる。

●本書は世界中の著名な執筆陣により,膜組織や筋膜に関する解剖学や生理学の最新の知見が整理され,筋膜に対する24の治療アプローチが簡潔に紹介され,さらには筋膜研究の新しい方向性がまとめらている.現時点での膜・筋膜に関する世界中の理論や治療法をエビデンスをもとに総括した珠玉の一冊である。

●これから“筋膜”の治療アプローチを学ぼうとするセラピストにとって,本書は非常に役立つ羅針盤となる内容である。