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古くて新しい感覚

学生時代、卒論で取り上げたのは、「都市の快適性」でした。

 

急速に都市化していく東京を眺めながら、ニュータウン開発やディズニーランド、失われていく人間の全体性などの現象を風景的な視点から取り上げました。そして終章で、当時流行っていた記号論の文脈で、言語について取り上げました。言語には全てを捉えられない。意味の体系には絶対自分は囚われないで生きていくんだ。と思っていました。

 

その後、社会に出たり、家庭を持ったり、親になったり、独立したりしていくにあたり、合理化したり、無思考状態になっていたり、その場その場の対応に追われて、自分の原点から離れてしまったり、心を止めてでも、結果だけを追う。そんな人間に、自分を改造してしまったり。

 

自分でない自分らしさに自分を委ねていくようになることも現代社会では多いと思います。(自分ではなかなか気が付けないことです。)何か違和感を感じながらも、考えないで合理化したり、頑張ることで乗り越えて、自分を次に進めていく。僕もそうでしたが、そんなことを感じている方も多いかと思います。自分という言葉は使い方難しいですね。色々な自分がこの世界には存在します。

 

色々な自分は、無意識化や潜在していても、どこかで無意識的に自分を動かしているものです。意識化し、気づき、自分を統合していくと、少しづつ自分に戻っていく。というビッグマップの中にいる自分と出会う。そんな素敵なことも起こることもあリます。死ぬ前で出会えればいいとされる摂理ですが、身体の中に見出す人もいます。通常は達人や修行の中で感じたような摂理にうまくいけば、身体的対話の中で行き着く人もいます。身体とは奥深いものです。

 

身体とは脳内のパルス信号のように情報だけが高速で行き来するだけでなく、圧力や張力という古いシステムでできています。それを支えているのは、水のような目で見えない繋がりで、これは身体的に感じることは出来ます。この古い触覚や流れる身体感覚は、きっと現代人が便利な生活を手に入れるごとに失われてしまった感覚に繋がるものではないか思っています。