発行日: 2026年1月17日(2018年10月15日のブログを再構築)
先日、四谷にある「あの階段」を訪れました。 映画『君の名は。』の舞台として知られるその場所には、公開から長い月日が流れた今もなお、世界中から30人近い人々が集まっていました。
映画という一つの物語が終わっても、そこは新しい「聖地」として機能し続けている。人々の「意味付け」が変われば、たとえ同じ場所であっても、そこは全く別の世界へと変容していく。その光景を目の当たりにして、私は改めて「出会い」の深淵について考えていました。
古来、日本において「名前」は魂そのものであり、安易に明かすものではありませんでした。見知らぬ相手に名を告げるのは、命を懸けて向き合う時、あるいは魂を分かち合う時。
出雲の歴史博物館で目にした古代の再現ドラマでも、恋に落ちた二人が最後に交わすのは「名前」でした。名を明かすとは、自分の中の最も素晴らしい部分を相手と交換し、無意識の層で繋がり合うという「儀式」だったのです。
私たちは今、あまりにも軽やかに、記号として名前を扱っています。しかし、私たちの身体の奥底には、今もなお「真実に出会う」ための高い能力が眠っています。
なぜ、私たちはめぐり逢うのか。 中島みゆきさんの『糸』の一節にある問いに、私はこう答えたいと思います。
「それは、私たちが無意識を共有しているからです」
合理性や打算を超えたところで動く「共時性(シンクロニシティ)」。理由のないものへの希求が、縁を育みます。おもてなしの国と言われる日本人の根底には、縄文の昔から受け継がれてきた「交歓する能力」が身体的に刻まれているのです。
しかし、現代という袋小路の中で、多くの人がその力を閉じ込めてしまっています。意識だけで相手を牽制し、傷つかないように自分を守る。それでは、心からの出会いは訪れません。
今、もしあなたが人生の行き止まりにいると感じているなら、まずは自分の「身体」に出会うことから始めてみませんか。
「学び」よりも「気づき」の時代。 身体を開き、そこにある無意識の領域に光を当てること。それは、あなたという存在を閉じ込めている「天の岩戸」を内側から開く作業です。
身体が整い、内なる静寂(AIR-CORE)に出会う時、あなたの「出会う力」は自然と高まっていきます。それは男女の縁に限らず、今あなたに必要な情報、必要な感情、そしてまだ見ぬ「自分の才能」との出会いでもあります。
意味付けが変われば、世界は一瞬で変わります。 四谷の階段に集まる人々が、古い階段に新しい希望を見出すように、あなたも新しい心身で、この世界と再会できるはずです。
袋小路の先には、必ず出口があります。 あなたはもう、この世界で自由になっていいのです。
I'm here. 私は、ここにいます。
