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風の歌を聴け

「風の歌を聴け」は、言わずと知れた村上春樹のデビュー作です。

 

あれは何歳のことだったのか、忘れたけど、初めてこの本を手に取った時に考えていたのは、「風の歌」というのがどんな歌なのかってことでした。

 

風は歌を歌っているのか、それとも奏でているのか。それとも風の歌というレコードがあって、ターンテーブルに乗せて、nagaokaのダイアモンド針でかかるものなのか。そんな想像しながら手に取った本です。

 

言葉では表せないもの、けどなんとなくピンときた。そんなことを考えていたのを思い出す。初めて読んだ時に、何て違和感のない文章なんだろう。って思いました。それから村上春樹の本は、ある年齢になるまで全て読んでいました。本を読まなくなったのは、単純に仕事が忙しくなったからです。忙しさは心を無くします。

 

 

その頃の僕はずっと違和感のないものを探していた気がします。それは本でも、音楽でも、映画でも、服でも、女の子でも。違和感のしないものは世の中には少なくて、僕はいつもイライラしていた気がします。今は違和感を感じることを抑えていく方法が主流でしょうかね。薬とか、言葉による合理的な納得とか、抑圧とか、昇華とか。そんな知恵のなかった僕は、ストレートに吐き出していたのでしょう。

 

 

違和感ないのは気持ちいい。

そして自由な感じがする。

違和感があって、普通だとかいうのって、不思議だと思いませんか。

これは身体でも同じです。

体の違和感、そのままにしていませんか?

体の違和感を、どこかに押し込めていませんか?

誰かにぶつけてませんか? 

 

 

風の歌を聴く。それは、小説のタイトルであったけど、

その後の僕は、風の歌を聴くように、自分の皮膚感で生きてきた気がします。

それは比喩のようであり、比喩ではないような気もします。

 

 

オーストラリアで出会ったアボリジニ。

彼は、風の歌を聴いていました。

風から色々な情報を得ていました。

温度、天気、隣町の様子、動物の動き・・・。

 

僕は聞きました。

「君は、風に歌を聴くことも出来るの?」

「もちろん。」

「でもここでは出来ない。」

「なぜ?」

彼はしばし沈黙したあとこう言いました。

「ここは街だから。」

 

たまには街を出ましょう。

書を捨て、町へ行こう。と言ったのは70年代。

町は気が付けば街になり、消費する位しか自己表現はなくなり、

モノ消費。

 

 

それに嫌気をさした人達は

街を捨て、海外に行こう、地方にいこう。行ったわけだけど、

行くだけではダメで、何かに出会わないと。何かを作り出さないと。生み出さないと。

それを商品化され、コト消費。

 

 

結局消費する僕と、消費される私たちは、

消費するために働き、忙しくなる。

またジワジワとくる違和感に、

捉えられるのは人生の半ばでしょうか。

 

 

街に家を買い、ローンを組み、

違和感を我慢しながら、薬飲みながら、夢を見ながら、

口で大丈夫って言っている街を出れなかった大人たちへ。

 

 

色々な風が吹き始めている地球で生きていく身体を。

自分の違和感に気付く身体を。