一昨年、新聞取るのをやめました。
習慣としてずっと取っていてやめるタイミングがなかったからか、ゴミ出しが面倒になったからか、どちらかは分からないけどやめました。
大学時代の集いがあり、同級生で、日本の新聞を取りまとめている組織の人がいて、我々世代も新聞離れには、頭を悩めると話していたことを思い出した。「新聞をみんな読まないとフェイクニュースを信じる人が多くなると社会が混乱する」というような話をしていました。フェイクニュースという言葉は知っていたが、リアルに感じたことのなかった、会話の中で出てきた言葉にビックリした。そういう風に使うのかと。
ネット社会になってフェイクニュースはビジネスになっていると言います。それだけ新しいニュースを求めている人がいて、ネット依存が進んでいるのか、どこかで情報戦が行われていて情報をたくさん流す必要があるのかどうかわかりませんが、確かに、目先のニュースが入ってくると、一つ前のニュースをすぐに忘れてしまい、情報的に扱われなくなると、なかったことになっているそんな日常を我々は生きているのかも知れません。情報と、いやフェイクニュースと共存している我々。
考えてみると、ニュースにしても、健康情報にしても、一体どこまでが本当で、どこまでがフェイクなのか、わかったものではありません。昨年、とあるい栄養学の博士に会った際もこう言っていた。我々は栄養を食べているのか、情報を食べているのか分からないと。これは身体にいい。と思い込んで食べると身体にいいらしい。
実際に本当のところ、食べ始めて5代くらいしないと栄養が吸収される身体にならないらしい、そろそろトマトが吸収されるようになったかもと、言っていて、ビックリしたのを思い出しました。これは、真実なのか、それともフェイクニュースなのか、。信ずるものは救われるのか。それほど我々は、言葉に弱いようです。
かと言って、何も信じないと、全て疑い、科学的に証明されたものだけで、頭がでっかちになってしまうと、それこそ、身体性とか、生命とかもそのカテゴリーに入ってしまって、生きている感じも、知識以上の生命の不思議や感情が感じなくなってしまって、心身症になってしまう気がしないでもないです。身体の感覚は、本当にたくさんあるので、身体に興味を持って、身体体験と共に生きている方が人間らしいと思います。
あと意外に気が付かないのが、フェイクニュースを発信し続けている自分に気がつきません。自分が口に出していることに、我々は無意識です。必要ない無意識は、気が付いて、解いて、自分の目でみた、感じたことで、自分の意見を発信していくのが良さそうです。フェイクでない心身になって、目の前のことに、自分自身で出会っていきましょう。それが夜明けに繋がります。