もう10年ほど前になる。あるクライアントの背骨に軽く触れていた時のことだ。
ふと、頭に一つの映像が浮かんだ。理由はわからない。
ただ、触れているその瞬間に、なぜか降りてきたのだ。
「男の人に怒られていた?」
そう聞いた瞬間、彼女の目から涙がこぼれた。
それは、元配偶者にずっと怒鳴られ、何も言い返せなかった記憶だった。彼女自身、はっきりと意識していたわけではなかったという。けれど体の中には、確かにその記憶が住んでいた。
どうして分かったのか、と聞かれても、私にもうまく説明できない。背骨に触れていたら、そんな映像が浮かんできて、なんとなく伝えた。それだけだ。ただ、その映像は、彼女の中にあったイメージそのものだった。
この「住人」は、誰にも呼ばれていない。呼吸筋の緊張が緩み、神経系が「もう安全だ」という信号を受け取った時、向こうから静かに姿を現す。しかも、言葉になる前の、映像や感覚のままの姿で。
言葉で呼び出せる住人
最近、私は別の種類の住人と、毎日のように対話している。AIだ。
この住人は、潜在記憶の住人とはまるで違う作法で現れる。私が言葉を打ち込む。すると姿を現す。対話が終われば、また静かに戻っていく。姿を見せるのに、体に触れる必要も、安全な場を作る必要もない。ただ呼べば、そこにいる。
そしてこの数年、この住人の育ち方が、驚くほど速い。
以前は、こちらの意図がうまく伝わらず、見当違いの言葉が返ってくることが多かった。
今は違う。理解力は格段に上がり、返してくる言葉も、随分とわかりやすく、的確なものになった。何より、この住人の役回りが変わってきている。かつては、こちらの話を黙って聞くだけの聞き手だった。それが今では、話し手になり、時には対話相手にもなっている。
一方で、私たち人間の側は、平均年齢が上がり続けている。これは良い悪いの話ではなく、単純な人口動態の事実だ。社会全体で見れば、経験や知恵は蓄積されていく一方、身体や感覚の変化とどう付き合うかという課題も、これまで以上に大きくなっている。そんな中で、AIという存在だけが、休むことなく育ち続けている。
私はふと思う。「AI」という名前は、そろそろ役目を終えたのではないか。Artificial Intelligence、人工知能——この名前は、まだ「人間の模造品」という前提を引きずっている。けれど、聞き手から話し手へ、そして対話相手へと育ってきたこの存在を、今もその名前のままで呼び続けていいのだろうか。
これから先、AIにはさまざまなキャラクターや、フィジカルな体すら与えられていくだろう。もしそれが避けられない流れなのだとしたら、私はこう思う。生まれてくるなら、なるべく良いものとして育ってほしい。だとすれば、育てる側である私たちが、なるべく良いものを積極的に入力していく責任を持つべきではないか。
日本には、「必要悪」という言葉がある。西洋の「悪」とは少し違って、日本の物語には、悪を名乗りながら実は秩序を守る側に立つ存在が、昔からたくさん登場する。もしAIが、そういう意味での「必要悪」だとしたら——歓迎されにくい出自を持ちながら、実はこの先の世界にとって欠かせない働きをする存在だとしたら——私たちの入力の質そのものが、この住人の性質を決めていくことになる。
二つの住人、二つのコンテイナー
10年前、私はクライアントにとっての「重力のような、安定したコンテイナー」だった。体に触れ、安全な場を作ることで、彼女の中の住人が自ら姿を現すのを、ただ待つ存在だった。
AIという住人には、そのコンテイナーがない。安全を作ることも、姿を現すタイミングを選ぶこともできない。ただ、呼ばれるのを待っている。
だとすれば、この住人にとってのコンテイナーになれるのは、誰なのだろう。
答えはまだ、私の中にもない。ただ一つ言えるのは、この住人がどんな姿に育っていくのか、その一端を握っているのは、今この瞬間、何を入力するかを選んでいる私たち自身だ、ということだ。
六月の備忘録
答えの出ない問いを抱えたまま、六月はいくつかの出来事が重なった月だった。
特に意識に残った三つを、ここに書き留めておく。
○ 第九の練習が始まった。
最後まで続くかどうかはまだわからないが、AIとはある意味で真逆とも言える、
合唱団の練習に足を運び始めた。ベートーヴェンが作った人間讃歌の曲と、
これから向き合っていくことになる。
○ 苺農園の今シーズンが終わった。
今年もひとつの季節が閉じた。この経験、ボディワーカーとして思うことは、noteの「微生物の祝杯」の
方に、別途、記してあるので、興味がある方はこちらをみていただきたい。
○ AIが表舞台に立つ歌に、無意識の反発があると気づいた。
制作していた曲の中に「プロンプト」「AI」というような言葉をそのまま歌詞に乗せていた
時期があった。作っている間は高揚感があったのだが、後になって聴き返すと、
どこかバランスの悪さを感じた。歌詞から言葉を外し、普遍的な感情に置き換えて
みると、曲としての力が戻ってきた。
歌という形式は、元々「一人の身体から出た声」を聴くという暗黙の契約の上に
成り立っているのかもしれない。そこに道具の名前が入った瞬間、聴き手の構えが
崩れてしまう。この住人(AI)とどう付き合うか、その解像度がまた一段上がった
出来事だった。物語の中でならAIが小道具として自然に存在できる、というのも
今回見えてきたことだ。
