ペース

何事もゆっくりやるのも悪くない。

ペース配分、コロナ期間に改めて思ったことの一つです。

 

よくよく考えてみると、物事には、急ぐこともあるし、急ぐ必要があることもあります。

急いでしまうと、変化にも気が付きにくいし、対処も雑に、現実を処理みたいになり、人生の楽しさを見逃すこともあります。ゆっくりと、特に人生後半は、ゆったりと構えて生きていきたいところです。


リモート会議も最初慣れなかったですが、いくつか出てみると、

別に普通のこと、慣れているか、慣れてないかの違いだけのような気もします。

自分のペースで対応していけば、新しいこともできると思います。ペース配分が他人とは少し違ってもいい時もあります。


 

先日、僕が料理をしていて、暖かいうちに食べるようにと、僕は娘を急かせたそうです。パパ急かせないで、もう少し自分たちのペースで食べようよ。と促されました。

 

無意識で気が付きませんでしたが娘にはそう感じるようです。そういえばレストランにいっても、ゆったりとしたペースで彼女は過ごします。自分で決めたこと一つ一つ丁寧に、そして確実に進めていきます。

個性か、世代かな、笑。彼女たち世代は、悟り世代と言いますね。ペース配分も個人差があります。今はそれを可能にする社会装置が社会にはありますね。


 

確かに世の中、もう少しゆっくりと生活した方がいいのだと思います。きっと彼女たちが社会の中心になっていく頃の日本は、ゆったりした社会になっているのでしょうね。

 

これからの人は100年生きるのが当たり前になる時代を生きるわけですから、人生も急がずにゆったりと過ごしていくのでしょう。日本も成熟化の時代ですね

 

さて、セッションで、体の動きを見ていても、ゆっくりやってみると、隠された体のパターンに気がつく場合が多いです。無意識の体のクセ、意識的に気がつくもの、無意識的になっている身体を修正していくもの、新しい動きを取り入れるもの、色々あります。セッションは少し落ち着いたペースで進めていきます。

     

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未来の自分

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個性の原点

「三つ子の魂は百まで」という言葉がありますが、本当にそうだなぁと思います。しかもそのことに本人が気がつかない、そんなこともしばしばあります。

 

 

自分らしさ、個性の原点ってありますよね。

ボディワーク的か、発達心理学的にか分かりませんが、3歳まで、つまり36ヶ月までに個性の元になる様なことはかなり形つけられています。

 

自閉していた新生児は、母親との共生状態を経て、分離し、個体として自立という風に向かうのですが、この過程が、どこかで完了せずに、個性化がなされると、この先の人生の様々な場面で、あるタイミングで、色々な葛藤を通じて、経験が追加されていく、そんなことは、よく起こることです。

 

自分の表層意識にどんどん上書きされて、次第に忙しくなり、生活に没頭しているとつい、どこかに置き忘れてきてしまうのが、三つ子の魂です。やがて自我の自分が魂を包み、身体的には深層のボディイメージですね。そのボディイメージを通じて、自分は育っていきます。そして守られ、そして自分を守っていきます。この3歳までの経験、完了。そしてそこに続く個体内の関係性や、社会的な関係性を通じて、その人のキャラクターは育っていくことになるのです。身体的な傾向、クセも、そうした内在性の個性が出ていることが多く見られます。

 

シリーズで行うセッションですので、身体を通じて、自分の個性に気がついていく、個性を超えて、人間性に気がついていく、そんなことも、ボディワークセッションでは起こります。身体の場合は、体の固有感覚をプロプリオセプションと呼んでいて、この知覚の適切な発露もまたシリーズを通じて、気が付いていく方向で、シリーズをコントロールしています。どんな変化や学びよりも、本人の気づきは、何倍もその後の人生の価値ある経験になることが多いからです。

 

出会う三つ子の魂は、それはそれは個性的です。愛着や情熱的な経験、アイ&ボディプレゼンス、ホールド、同一化、慈愛、ケア、対話、憑依や、無意識ワークなど様々な方法論を使いながらセラピーは進んでいきます。社会化される前の、本来の自分に出会いたい人や、身体症状に至っている心身症などにも、対応したプログラムを組むようにはしています。なかなか薬で抑え続けたり、心理的な手法だけでなく、心身で行うからこそ辿り着ける心地、境地、そんな事例もたくさん見てきました。

 

社会や望まれる人間像は時代とともに少しづつ変化し、世代や個々人によっては、内面に葛藤を抱えている人も多いかと思います。特に情報化が進み、我々の仕事や生活のスタイルは、10年ごとに変わる様な現代、変化に合わせて適応していくだけでなく、自分側の認識や身体も、フレキシビリティが求められている様な気がします。世の中は5Gと呼ばれる高度モバイル情報ネットワークを活用した社会へと変貌を始めています。コロナと合わせ、私たちに新しい生活様式へのシフトを促しています。

 

自分がフラットになった気がする

セッションのイメージとして、ニュートラルな身体とことを、ロルファーになった当初から使っていました。

 

 

社会におけるニュートラルさは、時期時期で少しづつ、変化してきている様にも思います。ウイズコロナ時代である、現在は、新しい生活様式ということになってきていて、またニュートラルは変わってきています。

 

 

新しいニュートラルは、居心地良いですか、それとも違和感が多いですか。一人一人違うのだと思います。

 

 

そして、ニュートラルというのは、その人にとってのニュートラルというのがあります。その人、固有の感じ方、考え方。この二つのニュートラルが、自分の中でぶつかり合って、その中庸あたりに、現実的なニュートラルが作られているのではないでしょうかね。

 

中には100%自分だっていう方もいるでしょうし、自分がなく、その場その場での空気間に揺れ動きながら、フレシシブルな人もいるでしょうし、自分から出てしまって、超客観的な場所から、自分を運用している人もいるでしょうし、逆に自分の中に閉じこもり、環境と遮断して生きている方もいるでしょう。色々なニュートラルが並存している現代社会です。

 

色々な人がいる中、関係性に悩む人も多く、少し自分から一歩引いて、自分、そして自分の現実、環境を見直す、そんなニュートラルな視点から、自分を見つめ直せると、生きていくのが楽に、そして自由に近づいていったりします。

 

 

ある方が、こんな感想をくれたことがあります。

 

「自分がフラットになった気がする」

 

音楽用語だと思いますが、フラット ♭は半音下げる。

ついでですが、半音上げるが シャープ ♯。

もとの高さが ナチュラル ♮ です。

 

学生時代思い出しましたか?

 

そうですね、これ全部ありますね。。。

 

 

フラットになった方は、少し頑張り過ぎていたのかも知れませんね。

肩の力が抜け、半音下がって、自分らしくなった。

そんな意味だったのでしょう。

そんな感受性、豊かな方だったのでしょう。

 

 

ポストシリーズまで受けられた方ですし、よく覚えています。

オフィシャルな立場の方だったので、その後の様子も、ネット、Facebookなどで、見させて頂いています。

ネットを通じてですが、その後のご様子、いい笑顔が見れて、僕も嬉しく思います。

 

 

さて

ちょっとしたズレは、その時々で必要だったことの結果かも知れませんし、

個性かも知れません。

 

個性は、形を変えても生かすこと、

そして、ニュートラルになっていく、自分自身なっていくこと、

(ちょっと深いリフレッシュみたいなものですかね。。。)

一見、真逆の様ですが、同じ発想だと思います。

 

 

どちらも生きやすくなる、

自分自身になっていく、

ということだと思います。 

 

 

 

no name

朝の日差しを浴びていたら古い記憶が出てきた。

 

 

昼下がり。Mr.Children「名もなき詩」が初動でミリオンセラーだと誰かの声がする。バーのアイスクリームを食べている。

 

額に汗が滴る。向かい合った友人の眼差し。声と唇。。滴る汗と仄かなかおり。ラックの形。窓から差し込む光。手書きのメッセージ。

 

 

時にウインドウズ95が出る前の世界。スマホどころか、パソコンがまだそれほど一般的でない時代。その後の世代の方には、想像もつかない現実感でしょうか、笑。

 

 

個人的な文脈で恐縮ですが、この時代の、鮮明な情景記憶が残る一つのイメージです。こうして頭の中には、ランダムに記憶の繋がりが残っています。人の顔、音、風景、歌詞、体感、質感、言葉、イメージ、食べ物、感情、など雑多なものが繋がりを持って記憶の中に残っています。

 

 

 

多分どんな人にも、こうしたコンテクストの記憶がたくさんあり、そのコンテクストは、無意識化して、自分を構成する要素として存在して、潜在的に経験として今に繋がっている。時間が流れ、ふとある時に大切な記憶を思い出すことは、時に素晴らしいセラピーとなり得ることがあります。

 

 

そして、今ここに、何かしらの葛藤が、無意識下にある場合、或いは意識化、身体化してきている場合、その突破口が隠れていることも多々ありますね。過去が今を助けてくれる。そんな場面に沢山立ち会ってきました。ある種の精神的な症候群や障害では、自分であることを止め自分の人生を歩まないことを自分としています。

 

 

何故自分の人生を歩まなくなるのかは、その理由やエビデンスは学者の先生にお任せしますが、人生のキーになるようなコンテクストの記憶を取り戻すということを続けていくと、やがて自分を動かし、自分の人生を歩んでいく、或いは新しい物語を歩み出し、自分の今を再発見することができます。そんな事例をたくさんみてきました。

 

 

名もなき詩を歌いながら歩むまだ見ぬ名もなき友へ。

人間は、詩のようなもの、そして新しい歌を歌えるもの。

 

さて、オリジナルが素晴らしいのですが、お互いを生かしあう素晴らしいセッションで懐かしのこの曲を。

 

 

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自分の現実と向かい合う

こんにちは、雨の連休、いかがお過ごしでしょうか。

 

 

コロナでは、新しい生活様式ですとか、移動の制限とか、なんとなく違和感が多いこともありますが、逆にコロナ対応を色々な方や、企業がしてくれたお陰で、いいことも多いです。それぞれの立場で色々変わってくると思いますが、どんなことも諸刃の剣の様相が出てきます。つまりいい悪い両方あるのだと思います。

 

 

僕にとって1つ良かったことを紹介します。6月以降、色々な情報がネットに増えてきています。今まで訪問しないと見れなかったものが、物凄い勢いでオンラインでも見れたり、新しいコンテンツとして提供されていたり。申し込みや問合せがすごく楽になりました。ただ、自分が必要としている情報と、出会うのに、少し工夫が必要です。

 

 

ずっと続けてきたスタイルが制限されたり、自由にできないと、モヤモヤ、イライラが一瞬、出てくると思いますが、認識の変更や複眼的な自分にシフトが出来ると、新しい現実感が一気に訪れて、目の前が開けてくることもあります。是非一度、現実の見方、ライフスタイルのオーバーホールを行ってみるといいと思います。オーバーホールと言われてもうまく出来ない方は、身体的に感じていくという方法論もあります。身体的に、現実認識、知覚を増やしていく感じです。10シリーズが終わる頃には、別の自分、別の現実感を持っている人になっていることもあるでしょう。なかなか稀有な身体経験です。

 

 

先週5ヶ月ぶりに母の姿を眺めました。施設におりますので、今の社会的な現実ゆえ、外部と遮断、暫く会えてませんでした。遮断されていましたが、施設内は意外に平和に過ごしていたようで、元気そうで何よりでした。やはりコロナは人それぞれのようですね。これから暑さ、台風などの時期になりますが、身体と意識と心と生活を、近くして、明るく乗り切って欲しいと思います。身体は助けてくれますね。

 

元に戻ることはない

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自分の体が愛おしくなった。

自分のカラダの感性があがったので、セッションを受ける前より、自分の体が愛おしくなりました。自分のカラダは一生ものなので、今までより、いたわっていけそうです。(→全文

 

 

(ロルファーコメント)

自分が好きになる。自分の体が愛おしくなる。ロルフィングを受けた後で生じる何段階の変化で、一度は感じることのある感覚の一つだと思います。病になった時くらいしか体のことを考えたことない。そんな人も多いかと思います。

自分の体を感じる、自分の体の声を聞く機会、きっとあなたの人生にとって、貴重な時間になっていくと思います。

 

 

体がニュートラルになる、それを感じていく喜び、いい悪いの外に出て、自分の体と出会っていきましょう。体に出会っていくと、自分だけでは思いもしなかった、考えるだけではたどり着けない、意外な感覚・感じ方・記憶に出会うこともあります。アウェアネス(気づき)は、あなたの現実感をより深く、より豊かなものにしていってくれます。

 

新しい自分と出会うために。

「私の身体の中には、こんなに無意識の領域があったのか!」ということです。



これは正直とても驚きました。今はその存在を「知った」ので、ちょっとした動作の中にも、今までと違う感覚があると解るようになり、毎日が発見の連続です。仕事では、ピラティスを教えるときにロルフィングの「効果」を感じます。クライアントさんの微妙な動きや力の入り方が見えたり、感じたりできるようになったことが大きな変化です。(→全文

 

 

(ロルファーコメント)

自分という未知に出会う為には、自分の外を見ていてもなかなか自分には出会えません。自分というのは、自分の中を丁寧に見ていくことにより、自分が気が付いていくことだと思います。目で見えることに惑わされずに、自分の中を見つめ直す、稀有な時間、気づきに出会っていきましょう。モノを買ったり、用意された体験を消費したりするのとは違う。1セッション1セッションが、本物の体で感じるナマの体験です。自分にとっての本物を見つけましょう。本物と出会ってないのではなくて、無意識になっていて気づいていない、そんなことも多いのです。